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東京地方裁判所 平成3年(ワ)7994号 判決 1994年7月22日

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

一1  請求原因1(一)の事実は、《証拠略》により認めることができる。同(二)の事実については当事者間に争いがない。

2  請求原因2の事実については当事者に争いがない。

二  《証拠略》によれば、甲野は請求原因3に記載のような痛みを訴えたことが認められる。

三  そこで、請求原因4について判断する。

1  請求原因4(一)(1)の事実については、これを認めるに足りる証拠はない。

かえつて、《証拠略》によれば、甲野は、昭和六〇年一〇月四日、東京歯科大学水道橋病院(以下「東京歯科大病院」という)で診察を受け、顎関節症、又はそれに起因した仮性三叉神経痛と診断され、同年一一月九日まで入通院していたことが認められる。また、《証拠略》によれば、甲野は、昭和六一年六月四日から榎本歯科医院で診察を受け、顎関節症と診断されているが、その時の甲野の咬合状態は快適に咀嚼できる状態ではなかつたこと、昭和六三年七月一三日まで義歯の修理や咬合調整の治療をしていたことが明らかである。さらに、《証拠略》によれば、甲野は昭和六三年七月八日に被告医院に初診で受診した際、左顎関節痛、肩こり、首筋のこり、背中の痛み、手の痺れ、耳鳴り、喉が過敏、眼が疲れやすい、ちかちか眼、音に敏感、筋肉や関節がいつもこわばる、よく関節が痛むなどの症状を訴えていたこと、甲野は、同年八月二日、榎本歯科医院では、

(一)  口腔内左の咽頭部が拡大、左軟口蓋が引つ張られてひきつれること、

(二)  左甲頭部、頚部、肩部にかけての筋の緊張があること、

(三)  後頭部及び右側頭部の脱毛(カイロプラスティク通院で治つた)があること、

(四)  咬合が不安定である(安静にしていると良い)こと、

(五)  鎖骨がひつ込んでいる(心臓の周りの筋がこわばつている)こと、

(六)  頚椎や右前方への湾曲がある(頭が前に出て右へ傾いている)こと、

(七)  左目が疲れやすくぼーつとかすんで見えること、

等の症状を訴えていたこと、甲野は、同月二日榎本歯科医院を受診して以後、他の歯科医院の治療を受けていなかつたこと、本件症状は、顎関節症がその一因をなすものであることが認められる。

以上の事実によれば、甲野は平成元年三月三一日当時において被告に対し、本件症状を訴えており、義歯の修理のほか咬合調整の治療の必要性があつたものと認めるべきである。これに抵触する《証拠略》は、前掲証拠に照らし採用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

原告らは、平成元年三月ころには、本件症状は、咬合状態も身体的症状もほとんど改善されていたとし、また甲野が昭和六三年七月八日に被告医院を受診した後、独自にカイロプラクティック、ジャグジー、マッサージなどに通い、筋萎縮症の症状等は改善されていたと主張するが、本件においては平成元年三月の段階で甲野の顎関節症が軽快し、本件症状が同年八月二日以降において歯科医院等の治療もなしに消失したものと断定できる証拠はなく、前記認定事実に鑑みると、右主張は採用できない。

2  請求原因4(一)(2)の事実のうち、被告がAMI診査や模型診断チャート、ダイナバーティー診断等の診査をしたこと、「甲野の顎が左側にずれていること、咬合高径が低く、上顎の咬合平面が足りない。」と診断したこと、本件治療計画を立てたことは当事者間に争いがない。

右争いのない事実に加えて、《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

すなわち、甲野は、東京医科歯科大学の依田医師の紹介で、昭和六三年七月八日、被告医院に初診で受診し、健康調査質問表、ダイナバーティーによる模型診断、パノラマX線診断、セファログラムX線診断、AMI診断を受け、同月一五日にも受診した。その際被告は、甲野について、平均値より上顎が低位で下顎が前方に位置しており、副交感神経が緊張し、抑鬱的傾向及び左半身の機能低下があつて、精神的不安定時には心身症、自身神経失調又はノイローゼが生じやすいという診断結果を得て、上顎の咬合平面を改善し、その上顎の正しい咬合平面に適合した最も安定した下顎の位置を決める必要があると判断するとともに、この判断に基づき、現在ある上顎の補綴物を全部はずして作り直し、欠損している部分は、義歯を入れて全体的に上顎の咬合を高くする、下右三番、四番と左三番、四番、五番をやり直し、欠損部に義歯を入れて下顎の位置を安定させるという治療計画を立てた。そこで被告は、甲野に対し、上顎の現在の状態では下顎のズレが極限に達しているため、上下の咬み合わせを治す必要があることをレントゲン写真を示しつつ説明し、甲野が以前に施術されていたインプラントを作り直すことを勧めたが、甲野はこれに同意をしなかつたこと、その後甲野が、平成元年三月三一日、被告医院を受診したところ、被告は、健康調査質問表に従つた問診、触診、模型診断、X線検査すなわちパントモX線写真、セファログラムX線診断、全身状態を診断するAMI診断によりパノラマX線撮影、セファログラムX線撮影をして、本件診療計画を立てたことを認めることができる。

原告らは、請求原因4(一)(2)記載の検査を行つていれば甲野の咬合状態にほとんど問題がないと診断できたと主張する。しかし、前記1認定のとおり甲野は義歯の修理及び咬合調整の治療の必要性があつたところ、被告は、この点に関し甲野の咬合高径が足りないと診断しているのであるが、原告主張の右検査をすれば咬合高径の正常・異常について確定的な判断をすることができたと認めるに足る的確な証拠がない。かえつて、《証拠略》によれば、咬合関係を診査する際には、その患者の保有する咬合関係によつて患者自身が異常を自覚しているか否かが大きな鍵になること、下顎位の偏位の状態をできるだけ明確にとらえることは、臨床上正しい診断により適切な治療が進むうえで最も大事なことと考えられるが、下顎位がその生体の中で安定した生理的な位置にあるか否かの判定の基準は患者の言葉による説明のほかはないこと、甲野は、東京歯科大病院で両側顎関節症及び不定型顔面痛と診断されており、榎本医院においては昭和六一年六月四日から診察を受け、顎関節症と診断されているが、その時の甲野の咬合状態は快適に咀嚼できる状態ではなかつたこと、同医院においては昭和六三年七月一三日まで義歯の修理や咬合調整の治療をしていたこと、甲野は被告医院において平成元年三月三一日にも本件症状を訴えていたことが認められる。以上の事実によれば、甲野の咬合状態に問題があつたことは明らかであつて、原告らの右主張は、その前提を欠くものというべきである。

3  請求原因4(二)(1)の事実のうち、本件治療計画を実行するため、被告が甲野の左上奥歯三本(四から六番)に連結する金属冠部分を僅かに削つたこと、左の下奥歯の義歯について咬頭の修正をしたことは当事者間に争いはない。

右争いのない事実に加えて、《証拠略》によれば、以下の事実が認められる。

すなわち、甲野は、平成元年三月三一日の被告医院における再診の際、上顎の義歯だけを作つて、下顎の義歯は修正してもらいたいと希望したこと、本件治療計画は、金属床の義歯を製作するというものであるが、金属床の義歯を入れるためには、前処置としてクラスプのかかる所に加えて、義歯の着脱がスムーズにできるように調整するため甲野の左上奥歯の金属冠部分について、その鋭利な部分と咬頭をなめらかにする必要があつたこと、被告は、甲野に対し、上顎の義歯だけ直したのでは体調は十分に良くならないかもしれないと説明し、もし不十分な場合は上下全体の義歯を作らなければならないと告げたこと、被告は、同年四月二八日、甲野に対し、「左上奥歯三本が長すぎるので削る」と告げた上で、上顎の補綴処理のため金属の義歯を入れる前処置として、クラスプのかかる所や義歯の着脱がスムーズにできるように調整するために必要な限度で咬合平面を整え、義歯の製作後に顎の運動に障害が起きないようにするために左上奥歯三本の金属冠部分についてその鋭利な部分を僅かに削り、その咬頭を滑らかにし、かつ上顎にあわせて下顎の義歯の修正をしたこと、甲野は、被告から歯を削ると説明された際、一旦はその治療を拒絶したものの、結局、被告を信頼してその治療法に委ねたことが認められ、これに反する的確な証拠はない。なお、本件全証拠によつても、被告が甲野の左の下奥歯の義歯を削つたことを認めることはできない。

右認定事実によると、甲野の左上奥歯三本の金属冠部分を僅かに削ることは、相当な治療行為と認められるところ、甲野は、左上奥歯の金属冠部分を削ることが必要な治療として同意し、本件治療に当たり歯を削ると告知されながら、最終的には異議をとどめることなくその治療を受け入れていたことが明らかであるから、被告は本件診療契約に従つて相当な治療行為をなしたものというべきである。

4  そこで、請求原因4(二)(2)について検討する。

原告らは、患者に神経症等心因性疾患があると筋神経型の緊張は異常に亢進しやすく、それによる下顎位や下顎運動のアンバランスを生じ、そのために咬合接触に見かけ上の異常が現われることがあるので、このような患者には咬合調整は、避けるべきであり、また、咬合位が低下している場合には、咬合調整をすることは無意味で、まず咬合位を回復させることが大切であるが、被告はこのような咬合治療の基本的注意義務を怠り、漫然と咬合調整を実施した過失があるし、その咬合調整施術上も過失があつたと主張する。

しかしながら、本件診療契約に基づく義歯の装着のためには、甲野の上顎の補綴処理が必要とされたこと、被告が甲野に対しその左上四番、五番、六番の歯を覆う金属板がついた部分床義歯を製作するという本件治療計画を立て、甲野の左上奥歯三本の金属冠部分を僅かに削つたのは、右部分床義歯を入れる前処置として、クラスプのかかるところや、義歯の着脱がスムーズにできるように咬合面の鋭利なところを平らにし、その後部分床義歯により咬合高径を足し、新たな咬合平面を作出するために行つたものであることが認められ、被告の右治療行為の手段、態様及び程度を考慮しても、被告が甲野に対し、原告らが主張する不当な咬合調整をしたとは認めることができない。

原告らはまた、被告が甲野の左奥歯を一ミリメートル以上削つており、その金属冠に穴を開けているが、これは削りすぎであると主張する。しかし、右主張を裏付ける客観的証拠はないのみならず、右認定のとおり被告が左上奥歯を削つたのは義歯を入れる前処置であり、義歯を製作した後、義歯により形成された咬合面をミクロン単位で調整したものと推認することができるから、原告らの右主張は理由がない。

5  請求原因4(三)について検討する。

原告らは、被告が甲野に対し、十分に説明義務を尽くしていないと主張する。

《証拠略》によれば、被告が甲野に対し、「左上奥歯三本が長すぎるので削る。」と告げ、その説明をしたこと、被告は、当初甲野に対し、インプラントを作り直すことを勧めたが、甲野の主張により本件治療計画に変わつていること、本件診療契約の内容は上顎の義歯の作り直しであること、甲野は、平成元年四月一〇日、被告の診察を受けた際、「自分で気功法をやつているのでそれで(上顎骨を)下げてみる。」と述べて、その咬合平面が低位であることを理解していたこと、同年五月甲野は、「宮内先生にお願いして治療をしている内に少し安定しているので、暫くは自分で筋肉を鍛えてから歯を削ることにする。」と言つており、その当時はまだ被告による治療の中途であり、咬合の改善は試行錯誤の部分が大きいことを理解していたことが認められる。これらの事実に徴すると、甲野は、被告の本件治療計画について、被告からその説明を受け、前記歯の金属冠部分が僅かに削られたのは右治療途上であつて、最終的な治療の終了は義歯の装着であり、その間の咬合の調整は過渡的にものであるうえ、義歯が完成するまでは咬合について多少の不具合が生じ、咬合状態の最終的な治癒は義歯の完成を待たなければならないことも十分承知していたものと認めるのが相当であるから、この点につき被告に説明義務違反の過失があるとは認められない。

なお、原告らは、本件診療契約に先だつて、被告が、甲野に対し、「私は専門家ですよ。私の言う通りにしなさい。そのような形跡は残つていないし、私がこれからやることは間違つていない。患者は診察台に座つたからには私の方針に従つてもらわないと困ります。」と強引に一方的に勧めたと主張するが、これを認めるに足りる的確な証拠はない。

四  以上によれば、原告らが被告の過失として主張するところはいずれもこれを認めることができないから原告らの各請求はその余の点について判断するまでもなく理由もないこととなる。よつてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中込秀樹 裁判官 河野清孝 裁判官 大垣貴靖)

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